日本の朝鮮植民地教育の基本は、忠良なる国民(日本人)のいくせい、日本人と朝鮮人別学制度、義務教育制ではないこと(1943年からは、徴兵制とセットでの義務制導入)などがあげられる。
まず、1906年の「普通学校令」で、初等教育機関の名称を「小学校」から「普通学校」に改め、公立普通学校(日本の学校は、尋常学校)での就業年限を6年から4年に引き下げた。朝鮮語を「国語」とする一方、新たに日本語を1年生から週6時間課している。
第一次朝鮮教育令(1911年)で、授業料を徴収(義務制ではないため)し、4年制の普通学校と2年制もしくは3年制の高等普通学校を中核とする教育制度とした。
第二次(1922年)で、内地延長主義とし、初等教育6年、中等教育5年を修業年限をそれぞれ延長し、1面1校の普通学校増設計画を推進した。(36年、初等教育就学率は25%)
第三次(1938年)で普通学校の名称が日本と同じ小学校となった。1941年、日本と同じく国民学校となったが、初等科と高等科の区別をしない6年制や、以前と同じ4年制の存続も認められた。
すべての学校の校長は日本人で、一般訓導に朝鮮人というスタイルがとられ、教科書も校内での会話もすべて日本語しか認めなかった。日本語を話し、勤勉に働く従順な日本人助手づくりを目指していたのだといえる。いわば、日本人養成学校であった。
このように、日本人化教育・政策を強行していたにもかかわらず、日本語を理解していた(読み書き)朝鮮人は、1929年8%、1942年20%、1945年35%と低い。社会人にも強制的に国語普及運動を行っていたわりには、少ない数字である。これは、朝鮮民族の誇り高い民族精神が、日本人化への抵抗を示した数字上の表現であったといえる。
【文:愛媛現代朝鮮問題研究所】