横網町公園~関東大震災朝鮮人犠牲者~

(写真:横網町公園 正門前)

 1923年9月に発生した関東大震災の混乱の中で誤った策動と流言飛語のため6000余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた。

 「東京都慰霊堂」や「復興記念館」で知られる横網町公園の一角に、関東大震災後、不当に殺傷された朝鮮人を追悼する石碑を見つけた。

 前代未聞の大震災発生時、多くの人たちが冷静な判断力を失い、不安に駆られた結果、様々な流言が生み出され無秩序に拡散した。

 その中で特に流言の被害にあったのは、朝鮮人であった。

 「鮮人襲来」という噂を受けて、政府は緊急勅令による戒厳令を宣告した。これによって、警視庁が流言を発した者に処罰を下すとの通知を出したり、市民による自警団が組織され、多くの朝鮮人や朝鮮人と間違えられた中国人や日本人が暴行・殺傷された。

 この関東大震災で殺された朝鮮人の数について、司法省の発表では233人であるが、在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班朝鮮人虐殺数最終調査報告によると6,661にのぼるとのことである。

 どうしてこれほどまでに数字が乖離しているのか。それは、当時の日本政府が朝鮮人虐殺の事実を隠すために証拠隠滅や政治的妨害を行ったことが考えられる。

 また、司法省の調査では、民間人の朝鮮人虐殺のみを挙げており、軍隊や警察の朝鮮人虐殺は除外しているとのこと。

 当時の殺された朝鮮人の数は定かではないものの、謂れのない噂話で多くの朝鮮人が傷ついたことは、まぎれもない事実である。しかし、こうした事実は、時間の経過とともに忘れ去られていく。

 四国の中にも朝鮮人にまつわる地が多くあるが、そうした地に赴いても朝鮮人がいたことを示すものは数少ない。

 悲惨な歴史がなかったことにならないようにこの研究所でも更に発信をしていきたいと再認識できた。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

続きを読む

【朝鮮人動員の地を巡る。】「松山市吉田浜航空基地 掩体壕」

(写真:松山市指定有形文化財 「掩体壕」)

 掩体壕とは軍用機を上空の敵機から守るために造られた格納庫で、太平洋戦争末期には全国の軍用飛行場に造られていた施設である。

 そんな掩体壕が愛媛県松山市に点在していると「朝鮮人強制連行調査の記録―四国編―」に記載されていたため、実際に現地に赴いた。

 戦前、松山海軍航空隊と松山海軍航空基地が設置され航空基地の飛行場付帯施設として南吉田・垣生両地区に掩体壕が63基作られるも、戦後、そのほとんどは消滅し、南吉田区には現在3基のみ現存している。

 そして、いずれの掩体壕も飛行場につながる隧道(トンネル)があり、中には水路として利用されているものもあるようだ。

 朝鮮人強制連行真相調査団によると、戦前、松山市高岡辺りで隧道工事に従事していた高乗紹(コウピョンソ)氏は、「隧道工事はほとんど朝鮮人がおこなった」と証言し、また、この地域のおばあさんも「トンネルはみんな半島人がやっていた」と証言したそうだ。

 しかし、現地の掩体壕に関する紹介の中に「朝鮮人」という言葉は出てこず、ただ戦争の悲惨さや命や平和の尊さを伝える資料として重要であるとだけ書かれている。

 当時、危険な仕事と知りながらも命がけで隧道工事にあたっていた朝鮮人がいたことを、少しでも多くの人に知ってもらいたい。

 犠牲になったのは隧道工事に携わっていた朝鮮人だけではない。これら人々の家族、なかには生まれたばかりの赤ちゃんもいたことと思う。悲惨な戦争を伝承すること自体は間違っていない。ただ、その悲惨な戦争の裏で朝鮮人もいたことを我々日本人はもっと知るべきではないだろうか。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

続きを読む